ドレッドノート・ストーリー

 

この文章は、マーティン社ホームページに掲載されている  "The Dreadnought Story" を、高越 正人さんが翻訳し、一部私が修正した物です。マーティン社の許可を頂き、掲載させていただきました。

 

高越 正人さん、Martin社 Dick Boakさん、どうもありがとうございます。

 

 

CHAPTER 1:ドレッドノートの歴史

 

マーティンギターとロールスロイス、マーティンとステインウェイピアノ、マーティンとバカラクリスタル、これらは各分野における最高の物同士の比較として間違いの無いところだ。しかし、ごく一部のアコ−スティックミュージシャンはC.F.MARTINの名前をその質の高さに象徴されるイメージに関わりなく耳にしている。1833年以来、マーティンギターはその終始一貫した力量に裏打ちされた楽器を全世界に提供している。ミュージシャン仲間の間でよく云われるジョークに、どんな国の言葉でも会話は「マーティンギター」の一言で充分だ、と言うのがある。

 

ペンシルベニア州、ナザレスにあるちっぽけな個人企業でありながら音楽業界へ魅惑的で非凡な楽器を提供し続けているこの会社とはいったい?二、三挙げるならば様々な技術的な特徴、もしくは有名なモデルと言う事になろうが、それこそがおそらくこのファミリ−の伝統と長年の英知、もはや伝説の域に達したその評判を紛う事無く表現しているのだ。いかなるもの創りのメーカーにおいてもその製品、価値、サービスに一点の曇りもないなんてことはありえないが、マーティンギターにおいては、クリスチャン・フレデリック・マーティンがジョージワシントンの桜の木で最初のギターを創って以来今日に至るまでそれを守っていると言えよう。

 

「手作り」のイメージはマーティンの限定された物作りにおける独特の雰囲気の一部と言えよう。現在においてでさえその生産高はフォーチュン誌においての企業500社の資格にも達してはいない。マーティン社が生産している色々な楽器において、ドレッドノートもしくはDサイズギターがその生産能力ライン以上の人気を得ることを職人は誰も歓迎していないといっても過言ではない。現在ではアコースティックギターの基準となったドレッドノートも以前一度、当時の他のギターに比べあまりに大きかった為に脚光をあびることが難しいと見られた時代があった。

 

当時D-28の深い低音音響はミュージシャンにとって、彼等が使っていた小さいサイズのギターにおける澄んだ高音と全体のバランスに比べ、とても異なった特徴であった。しかし、ドレッドノートがカントリーミュージシャンの手に渡り演奏されるようになるとそれは、耳の肥えた観客を魅了し始めた、それはまさに歌やバイオリンやバンジョウなどのバッキングとしてベース楽器の代わりにうってつけだったのだ。マイク・ロングワース氏著書の「マーティンギターの歴史」を読むと、ドレッドノートはそのデビュー以来確実にその人気を伸ばしてきたとある。今日、ドレッドノートは至るところで作られ、あらゆるアコースティック音楽に使用されており、マーティンにおいては、年間生産数の約80%を占めている。

 

 

CHAPTER 2:その、始まり

 

そのごく初期におけるドレッドノート、(第一次世界大戦時代の英国戦艦の種別名からつけられた)は、マーティン社がボストンに本拠をおくオリバーディットソンと言う出版会社の為に作った。そして不思議にもそれらのギターにマーティンの社名はなくボストン、ニューヨークの市場においてオリバーディットソンのブランド名で1916年に売り出された。当然それらはマーティンのシリアルナンバーには含まれておらず、代わりにディットソン社独自のシリアルナンバーが採用されていた。そしてそれは1920年代後期に会社が無くなるまでカタログに引き続き登場していた。

 

ディットソンのドレッドノートは現在のマーティンと比べて全く異なった外観をしていた:ボディはその広さに応じて長く伸ばされ、12フレットネック(12フレットの所でネックとボディが組み合わされている)にはクラシックギタータイプのギターヘッドが採用されていた。また、初期のディットソンはサウンドホールの周りの飾り模様やインレイのパターンが異なっていたしピックガードは装着されていなかった。全てのディットソンはバックとサイドにマホガニー、トップにスプルースが使用されており現在のD-18のようだった。

 

1931年、マーティン社は自社名を付けたドレッドノートギターの生産をはじめた。D−1及びD−2として2種類がデビューをかざったのだ。D−1モデルは(初期のディットソンに、似ていた)マホガニーボディのギターで後のD−18の前身となった。D−2(1931年に4台だけ作成)はマーティン社がローズウッドを使用したドレッドノートとして紹介した最も代表的スタイルのスチール弦ギターと言えよう。初期のマーティン、ドレッドノートは全てディットソンデザインの12フレットネックジョイントを採用していた。1934年を待たずしてD−18、D−28は現在もっとも一般的である14フレットネックジョイントを公式採用した。

 

そのほかの点で当時と現在ではどんな違いがあるのだろう?初期のD−18はその外観が現行モデルと比べてある例外を除けはそっくりだ。例外とは:エボニーは当時ブリッジやフレット材として、現在良く使われているローズウッドよりむしろ、より一般的に使用されていた。28スタイルの最もすばらしい姿もこの時代にあった。初期のD−28は表面の周囲全部に寄木細工の模様(他と区別してヘリンボーンパターンと呼ぶ)が施されていた。この飾りは現在における一つの名称であり、愛好家の間で垂涎の話題となる「ヘリンボーンD−28」の語源となった。(基本的な作りは現行のHD−28のそれである)付け加えて、さらにバックを二分するジッパーの飾り模様が現行D−28とは違っている。

 

この28モデルのヘリンボーンスタイルの装飾は1947年その歴史的な背景と経済的な事情により終焉を迎える:この縁取り装飾は第弐次世界大戦以前のドイツで製造されていいて、アメリカの原料では作ることが出来ない物であった。その在庫がなくなって以降D-28(28スタイルのギターは全て)白と黒が交互に配置されたセルロイドで新しく装飾される事になる、これは本来マーティンのアーチトップモデルであるC-2に使われていたものであった。1947年には、だだ一台のみヘリンボーンD-28が製造されている。

 

会社としてはマイナーな変更にすぎないと考えていたこの変更は依然としてギター市場に多大な影響を及ぼした、構造,機能的に同様であるにもかかわらず、46年製(ヘリンボーン)は47年製(ノンヘリンボーン)に比べて圧倒的なセールスを見せたのである、

 

確かに、戦前のドレッドノートは絶大な魅力を誇っているが、それは、その回りの縁取りが素晴らしことのみがその根拠ではないと思っているのだが?貴方はそう思う?思わない?私達が1943年製のD-28(この件に関して言えば43年製D-18もしくはその他43年製でスティール弦ギターならどのモデルでも可)の内側を覗いたならば、1945年以前とそれ以降に製造されたギターのなにがどれほど極めて違うか見つける事が出来る:ブレーシングの全体的な形状とロウワーブレイスがギターのトップに取り付けられている事。

 

1945年以前に製造されたブレースはスクープされたもしくは「帆立貝」スキャロップの形状で構成され、おおむね軽い。このブレーシングの機能的な意味合いは表板(トップ)表面の振動をより柔軟に響かせ、低音の響きを強化することにあった。(この工法は1945年初頭に起こった古い工法であるスキャロップド・ブレーシングの変更を見るまで長きにわたり行なわれてきた。ロングワース氏によると実際は1944年の暮れに変更が行なわれた。12台のD-28と26台のD-18において強化され重くなったブレーシングが採用された。便宜上変更基点は1945年として以降の文章にも適応)

 

さて、ここでは、やはりヘリンボーンがその理由、に対する回答を述べよう。重いブレーシングへの変更とヘリンボーンであるかどうかの差は2年間と少しの間の重複期間を創り出した。解かりやすく言えば、46年製のヘリンボーンD-28とか47年製のノンヘリンボーンは戦前戦時中のビンテージドレッドノートに比べより一般的な構造であったと言える。45年製のドレッドノートには表材にアディロンダックスプルースが使われていたがスキャロップブレーシングではない。46年製はノンスキャロップで表材はシトカである。ついでに言うと、1451台のD−28そして3753台のD-18のみがブレーシングの変更以前に製造されただけなのでそれを楽器屋で見つけるのはちょっと難しいといえる。

 

ではなぜマーティンはスキャロップブレーシングから重いブレーシングに変更したのであろうか? 答えはギターそのもではなく弦にあった。当時多くのギタリストはヘビーゲージを使っていた。ヘビーゲージの使用は頑強な構造を持たないマーティンギター、特にドレッドノートの25.4スケールギターにとってはかなりの負担であった。全く単純に、マーティンは特別に強い弦張に耐えるような頑強なギター作りに関心がなかったのだ、よってその補強の為にブレースに強度を付け加えた。

 

ドレッドノートは、初期においての進化としていくつかのマイナーチェンジが行なわれている―マーティンのファンの間では10年越しの争点となっているのだが。一つはトップに施されるクロスブレーシングの位置についてである。初期型においてのブレーシングはサウンドホールすぐ近くに組まれていおり、結果として若干異なった振動をする効果をトップに与えた。何人ものギタリストが「High X ブレーシング」のギターを創り上げた事がマーティンの最大の偉業であると考えている:その他の人は些細な違いを見つけ出しているにすぎない。ロングワース氏によると、ブレーシングの全体の配置は1930年代後期にトップを強化する為にサウンドホ−ルから離された。

 

第二次戦時中の金属の不足により、マーティンはネック内の補強金属バー(Tクロスセクション)の使用を断念した。彼等は代わりに黒檀で同様の部品をつくった。初期の黒檀製バーのデザインは1934年に鉄製のTバーにとって代わられていた。

 

黒檀製のバーを使ったギターは弱冠だが明らかにその初期及び後期のそれより軽く仕上っていて、ネック角度の問題がより多く発生しがちであった。戦後Tバーは再び使われるようになった。そして1967年に鉄製の四角柱にとって代わられた。1985年(数10年後何社かの製造業社はその使用を始めていた。)マーティンはその歴史上初めてアジャスタブルネック(トラスロッド)を導入した。

 

 

CHAPTER 3:最初のD-45

 

1933年カウボーイのスターでカントリーシンガーであったジーン・オートリ−は特別注文を申し出た。オートリ−は彼のお気に入りのギター、ジミー・ロジャースのOOO−45の容姿でかつ新しい大きなボディーのギターが欲しかったのだ。マーティン社はその要望に応じ、最初でかつ最も有名なD-45#53177が誕生した。完成品の指板には真珠細工で彼の名前が添えられた。

 

全ての初期型のドレッドノートがそうであるように第一号のD-45は長く伸ばされたボディを12フレットでジョイントしてあった。想像はつくと思うが、ボディ全体にアバロンパールでの装飾が施されたギターはその制作費が高価を極め、大恐慌の真っ只中の時代でさえ$200にも達した。

 

D−45は1938年までカタログにも載ることはなかったが、1933年中に5台が製造され、又別の12フレットジョイントモデルを含む公式な商品として発表された。オートリーの為に作られたギターのヘッドには「トーチ」インレイがなされていたが、その次のD−45において現在馴染み深いC.F.MARTINの活字ロゴが刻まれた。1939年に指板上のポジションマークがそれまでの伝統的な「スノウフレークス」型から現代型の「ヘキサゴン」型へと変更された。

 

マーティン社は1942年その生産を一時的に中止するまでの間91台のD−45を生産していた。1936年製のD−45は例外で(これらは、5/8サイズの幅広ボディーと異なった3種類の12フレットジョイント「S」デザインであった)それらは1945年以前のドレッドノートと構造的に同一のものであった。

 

 

CHAPTER 4:40年代中期から60年代中期

 

1931年から1947年までの期間がD-18, D-28において活発な開発時期となったが、それ以後の20年間は事実上大した変更が行なわれなかった。その他の変更はあったしかしながらそれは2種類の新しいドレッドノートの製造と3種類の復刻版の製造であった。

 

1954年にマーティン社は胴長12フレットジョイントのドレッドノートをごく僅かではあるが再びその生産をし始めた。モデルナンバーのあとにSがつくこのシリーズで初期に製造された数台は厳密な特別製造モデルであった。

 

ボストンの企業E.UウーリッツアーはこれらSモデルのギターを数台1962年に彼らの店舗限定で売りだすために発注した。その結果はD-28Sが充分な人気を持つことの証明となり、1968年にマーティン社はその主力商品ラインアップにD-28S(D-18S、D−35Sも含め)を加えた。これら三種類のギターはすべて、マーティンヴィンテージシリーズとして登用された。ロングワース氏によれば工場は常に、D-28Sが人気機種になるようピーターポールアンドマリーのピーターヤロウにその最高の楽器を提供したと言う。

 

1956年、新しいローズウッドを使用したモデルD-21が公表された。(6台の試作モデルは1955年製である)D−21はD-18、D-28の双方に似ており、一つの既存スタイル(21STYLE)のドレッドノートバージョンだった。D-21はD−28と同じローズウッドのボディであるが、一方その容姿はD-18に極めて近いものであった。鼈甲色のボディの縁取り、ローズウッドの指板とブリッジであった。

 

60年代半ばまでマーティン社は常にブラジルからローズウッドを丸太(原木)のまま買付けていた。木材はマーティン社の手法に則りアメリカ国内で製材されていた。ブラジル政府は国内での製材産業の需要をはかるために丸太のまま輸出する事を禁止したのである。

この環境変化はマーティン社にとって全く不都合なものであったので、以後ローズウッドはインドから輸入されるようになった。

 

このマーティン社のインディアンローズウッドへの変更決定は以後の作成段階に影響を与えた。第一には、1965年、ドレッドノートにそれまでマーティン社が使用していたものより狭い木材部分の使用を容認したと言う事だ:いわゆるスリーピースバックのD-35がそれである。美しいセルロイド製のボディ装飾、フレットボードのサイドにもバインディングがほどこされた全く斬新なスタイルであった。D-21と全く見違うD−35は見事に成功した。

 

 

CHAPTER 5:激動の60年代中期

 

D−35発表の後、マーティン社はブラジリアンローズウッドの供給減少と急速に拡大したギターマーケット―フォークミュージックがブームとなっていた―と言う相反する問題に直面した。新たに輸入されたインディアンローズウッドはギター材として使用する前にさらにシーズニングする必要があった。結果としてマーティン社は在庫のブラジリアンローズウッドの原木から今までとは違った裁断を行ないそれらの更なる有効利用を始めた。1969年の暮れまでにはインディアンローズウッドへの変更が完了し、D−21#254498がいままでとは区別された正規のインディアンローズウッドギター第一号となった。

 

変更はそれだけに留まらなかった。それ以外にも幾つか親しまれた特長が同様に姿を消した。1967年には硝酸塩を基礎とした鼈甲色プラスティック、D−18,D−21ではボディの縁取りに、またすべてのドレッドノートにはピックガードとして使用されていたが、今後の使用と備蓄を考え、より安定した原料としてアセテートを基礎とするブラックプラスティックが鼈甲色に取って代わった。親しまれた象牙色(アイボロイド)のボディ縁取り、D−28、D−35にほどこされていたが、それもボルタロンとよばれる供給性にまさるよく似た材料に代えられた。

 

その他の変更としては、(たとえ不注意であったとしても)60年中期のマーティンギターのヘッドが丸みを帯びた形状になった事が挙げられる。マーティン三世から直接話を聞いたと言うロングワース氏によれば、ずっと使っていたギターヘッドの木型が長年の使用で本来角張っていた角が磨り減り、丸みを帯びてしまったとの事。結局新たに金属製の型が作られギターヘッドの角は再び角張った形状に戻った。

 

1968年の4月9日には更に深刻な変更が行なわれた。この日からマーティン社はブリッジプレートにそれまでのメイプルから代えてローズウッドの使用を始めた、補強材として小さな木片が表面板の内側、ブリッジの真下に糊付けされた。マーティン社はまたブリッジプレートを大きくした。

 

重いブレーシングの採用20年前から構造的な安定性において問題をかかえていたマーティン社にとって大きくて重いブリッジプレートの採用はその回答であったように思われる。が、しかし、もし、仮にこの期間において作成されたギターのそれ以前と以後の決定的な違いを一つ、確信を持って指摘しなければならなかったならば、ボディに違うローズウッドを使ったとか、プラスティックの色が変わったとか、ギターヘッドの形状が変わったとか、その他の目に見えるたくさんの部分の事を言うよりむしろこの一見無害に思えるギターの内側の木片を挙げなければならない。

 

ここで、興味深い事を記そう、80年代半ばの期間にマーティン社はライン全体でスキャロップド・ブレーシングや小さいメイプル製ブリッジプレートを含む多くの戦前のヴィンテージ仕様を復活させはじめたのだ。

 

 

CHAPTER 6:ビッグギターブームの到来

 

1960年代後期はマーティン社にとって一時代の終焉であったと言えよう。しかし、その60年代末期の幾つかの作品は後に驚きとともに迎えることになる「大量生産の70年代」の道案内を果たしたのであった。1968年、26年の長きを経てかの有名なD−45が再浮上したのであるが、マーティンの歴史研究家であるマイク・ロングワース氏こそ、この生産が再び評判となったなによりの功労者と言えよう。

 

ロングワース氏はマーティン社で働いていた時、マーティンギターを芸術品の域に高める為の真珠加工技術の知識を会社にもたらした。実際、ロングワース氏は彼自身で何台かのD−28を古いD−45を基本にボディ全体すべてに渡り真珠細工をやり直し「コンバート」している。これは贋物を作る試みではなく最高の技術として賞賛された。230台のD−45がインディアンローズウッドへの変更以前、60年後期にブラジリアンローズウッドを使用して製造された。

 

1969年D−35とD−45の狭間を埋めるべく全く新しいモデルが発表された  :D−41である。この機種の特長は真珠による装飾が表面の周囲にのみ施され、全ての淵に装飾が施されさらに高価になるD−45と対照的であった。通し番号シリアル#252014で始まる31台のD−41はブラジリアンローズウッドが使われたが残りはすべてインデアンローズウッドが使われた。

 

1970年代初頭はアコースティックギターに大変な注目が注がれていた、(まさに時を同じくして起こったジェームステイラー、ロギンスアンドメッシーナ、そしてシールズアンドクロフツに代表される新しい「ソフトロック」の時代)マーティン社は前例のない比率でその生産高を伸ばした。比較として取り上げれば、1961年度会社は507台のD−28を製造したが、1971年度には5466台となっている。マーティン社は5種類のドレッドノート(同様に数多くの小型モデル)を揃え毎月拡大を続ける市場へ投入した。

 

かつてない増加をみせた需要に対応しなければない立場にあっても、マーティン社は依然として手作業を重んじ、生産過程の変更よりも職人の育成を選んだ。マーティン社は1971年にその生産がピークに達したが、以後、1974年と1975年までドレッドノートはその生産のピークには達しなかった。この2年間に30000台を越えるドレッドノートが製造された。(1974年度:D−18―3811台、D−28―5077台、D−35−6184台、D−41−506台、D−45−157台 1975年度:D−18−3069台、D−28−4996台、D−35−6260台、D−41−452台、D−45−192台、 注:Sモデルは上記生産台数に含まず)

 

 

CHAPTER 7:その他の機種

 

結果的にアコースティックギターの売上において社会現象ともなったこの間の市場の拡大時期そして、その次の沈静時期、マーティン社は積極的な研究と段階的な開発を開始し、それによって1980年までに、9種類もの新しいドレッドノートを生産ラインに加えた。

その中から一つだけを取上げて全てを語る事は難しいが、HD−28はそれ以外の機種全てが新しい考えに基づいて作成されている中、興味深い背景を垣間見せる代表的な機種である。

 

1976年に発表された、HD−28は意識的に過去の戦前モデル、ヘリンボーンD−28を髣髴させる努力がなされていた。それには、初期のドレッドノートのように、スキャロップブレーシング、小さいメイプル製のブリッジプレートが採用され、そしてトップの周囲にはヘリンボーンの縁取り装飾が施された。この過去への回帰はこのモデルが大変な人気を得る事を証明するのであった。HD−28成功の後、HD−35(スキャロップブレーシング、メイプルブリッジプレート、ヘリンボーントリム仕様)が1978年に発売された。

 

稀代の力作としては200年記念モデルのD−76がある。スリーピースバック、28タイプのトリム、指板上の星型真珠細工、ギターヘッドの真珠細工による鷲、2本のヘリンボーンバックストライプがその特長である。これらは、限定生産として1976台と(追加として98台の社員用)が製造された。D−76は1975年にその生産を始めたが、ヒット商品とはならず、1978年まで売り切れにはならなかった。

 

更に、その他で注目商品シリーズのギターが発売されたが、それは、ハワイアンコア材で作られていた。これは、マーティン社が南国の堅木を使う最初の試みではなかったが、それらのギターはコア材で作られた最初のドレッドノートであった。二つの基本的なスタイルが二つのオプショナルモデルのそれぞれに投入された。D−25Kはスプルーストップに2ピースのバックとサイドがコア材、ローズウッドの指板とブリッジそしてブラックバインディング仕様を基本に:トップにコア材を選べばその名称はD−25K2となった。D−37Kは模様の入った2ピースのコア材をバックとサイドに、スプルーストップ、黒檀の指板とブリッジ、ホワイトバインディング、意匠を凝らしたインレイを基本に:トップにコア材を選んだ場合はD−37K2となった。

 

D−18とD−28の中間を埋めるべくその他に2機種が発表された。D−19はD−18にバックとサイドの色に合うよう茶褐色(汚された色)のトップを採用した。そしてそれは、D−18にマホガニートップを採用したD19Mによって踏襲された。

 

 

CHAPTER 8:2000年そして未来を目指して

 

マーティン社はその70年にも及ぶ堅実な生産を経て、21世紀を迎えようとしているが、今や、そのドレッドノートのギターは標準的なモデル、ヴィンテージの再現モデル、新たな特許モデル、安価な1シリーズや16シリーズ、時々の限定モデルそして、さらに特別注文による「夢のギター」に至るまで顧客の要求に応じる事が出来る。

 

ドレッドノート限定生産モデルにおいては、その形式に多様性を持たせてきた。マーティン社は「High Xブレーシング」、「ブラジリアンローズウッド」、「V型ネック」、「鼈甲色ピックガード」、「アイボロイドバインディング」を採用し、そしてその他すべての特色は通常のHD−28に基づいて30年代中期のD−28を忠実に再現したヒストリカルモデルを発表している。マーティン社はまた、D−62の限定モデルに見られるように新しい素材の導入、メイプル材のような物など、も導入を続けている。

 

その他の以前の商品構成においては、比較的値段の安いコア製のドレッドノートも含まれているが、後のかつてない豪華仕様のマーティンドレッドノートによってすぐに引き継がれた。1987年製D−45LE、定価$7,500はマーティン社の現会長であり、チーフエグゼクティブオフィサーのC.F.マーティン四世自らがそのデザインを手がけた。このモデルは2つのCFマーティンシニア記念1996年モデル、殆どボディ全体に及ぶ真珠装飾のボーダー、特選ローズウッド、ピリオドインレイにゴールドのぺグを装備、を含む将来のD−45デラックスモデルの先駆けとなった。1994年にはかの有名なジーン・オートリーの12フレットジョイントD−45復刻モデルが発売されたが正規小売価格は$23、000であった。1996年には「MTVアンプラグド」と共同開発で非常にユニークなドレッドノートが誕生した、それにはローズウッド、マホガニーと言う2種類のトーンウッドの両方が使われ、いかにもMTVモデルと言うインレイが施された。

 

こうした限定生産モデルの一つの欠点は購入期間が限られかつ数量的にも制限がある為に購入したいと考えている顧客がいまさらもう遅いという時期までその存在に気付かない事である。

 

同時に顧客は彼もしくは彼女なりの「限定モデル」ギターデザインにおいて本質的に自由な発想を持っている。マーティンの特注ドレッドノートは本当の意味での新たなオプションではない―例えば1934年に歌手のテックスフレッチャーが特別注文した初めてのD−42は左利き用だった。しかし、1983年以降マーティン社は顧客に対し定期的にギターのカスタマイズを呼びかけている。

 

全てのこれらオプションやマーティン社の商品構成の急速な変化はマーティンファンにとってエキサイティングなことであり、時に混乱する事でもある しかし、上質な車や素晴らしいピアノのごとくマーティンのドレッドノートは新しきも古きも敬意の念を抱かせるもので有りつづけ、そしてそれは何年先であってもそうであろう。

 

Courtesy Of C. F. Martin & Co., Nazareth, PA, USA. All rights reserved. Used with permission.

 

 

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